世界初、平時の災害救護
当センターの災害救護は、1888年(明治21年)7月、福島県の磐梯山の噴火に際し、皇后陛下(のちの昭憲皇太后陛下)の思し召しを受け医師3名を猪苗代へ急派したのが始まりです。当センターの前身である博愛社病院が設立されて1年半後のことでした。もともと、日本を含め世界の赤十字の救護活動は戦地における傷病者の手当(戦時救護)を目的としていたのですが、この磐梯山噴火災害の救護は、世界の赤十字で初めて「平時の災害に対する救護活動」を実践した先駆的事例として、国際的な注目を集めました(これを記念して、裏磐梯・五色沼のほとりに「平時災害救護発祥の地」の碑が建立されています)。その後も、エルトゥールル号遭難事件(1890年)、濃尾地震(1891年)、三陸大津波(1896年)、関東大震災(1923年)など、近代日本史に刻まれた数々の災害は、まさに当センターの救護の歴史でもあるのです。群馬県・御巣鷹山の日航機墜落事故(1985年)では、部分的にしか残っていないご遺体を新聞紙や段ボール、さらし布などを用いて五体揃った形に整えた上でご家族にお返しする「整体」という技法を編み出すなど、赤十字の精神を余すところなく体現した救護活動が高く評価されました。
市民を守る、子供を守る、職員を守る
2011年3月に発生した東日本大震災では、災害発生の100分後にはDMAT(Disaster Medical Assistance Team:災害派遣医療チーム)を福島市へ、さらにその1時間後には救護班要員14名を含むdERU(domestic Emergency Response Unit:国内型緊急対応ユニット)を石巻市へ派遣したのを皮切りに、救護班、こころのケア要員、病院支援要員など、延べ175名の職員を派遣しました。幕内雅敏名誉院長の提唱した「市民を守る、子供を守る、職員を守る」という基本理念の下、遠い被災地だけでなく、東京に避難された方々や、当センターに入院していた赤ちゃんにも安心と安全を提供しました。
すべては被災者のために
阪神・淡路大震災を機に、日赤の救護活動は大きく幅を広げ、超急性期の医療救護を担う「DMAT」の養成や、災害時の「こころのケア」などが始まりました。当センターは、日赤本社直轄の「本社救護班」を擁する医療施設として、超急性期から亜急性期・慢性期まで、災害のあらゆるフェーズに対応できる救護要員の育成とスキルアップに積極的に取り組んでおります。また、国内の災害救護を専門業務とする「国内医療救護部」を全国で唯一設置している赤十字病院として、赤十字の多様な救護活動をリードしてまいります。
私たちは赤十字の職員として、一人ひとりが災害対応を特別なことと考えず、日常業務の延長線上として当たり前に行うことができる病院を目指しています。120年以上にわたって培われてきた救護の経験やノウハウを風化させることなく(風化とはもともと「徳によって人々を教化する」という意味なのですが)、研修に、訓練に、たゆみない努力を続けていくことで、災害による「防ぎ得た死(Preventable Trauma Death)」を限りなくゼロに近づけたいと願っています。